2009年02月14日

今回は世に知られる新撰組のおはなし・・・

川越にも新撰組隊士がいたということをご存知ですか?

新撰組全隊士456人の中に埼玉県に関わりがある人物に熊谷市の根岸友山(ねぎしゆうざん)、行田市の遠藤丈庵(えんどう じょうあん)、羽生市の清水吾一(しみず ごいち)と川越市の渡辺市造(わたなべ いちぞう)等がいました。

根岸友山は新撰組の中でも有名で、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛にともなう浪士組の一員として京に上り、清川八郎(きよかわ はちろう)が幕府の組織でありながら急進的な尊王行動をとった後、浪士組本体の江戸帰還が決定すると、京都残留を希望し京都守護職に建白書を提出した24名の中に名を連ねました。

会津藩預りとなり壬生浪士組(新撰組の前身)を結成しましたが、内部抗争で粛清が行われ始めると思想の違いや身の危険を感じお伊勢参りを口実に脱退し帰東しました。
その後、江戸本所を屯所とする新徴組に参加しましたが、佐幕から討幕に変化したようで、まもなく脱退し帰郷した後は、自宅で剣術や学問を教え、勤皇論を中心とする『吐血論』を刊行しました。

渡辺市造は嘉永4年(1851)生まれで、慶鷹3年(1867年)6月16歳で新撰組に入隊し、12月には暇を与えられて離隊しています。維新後、川越に移り住み米人足をしていましたが、市内挽割屋(ひきわりや)の娘と結婚、明治41年4月8日に亡くなり(享年57 歳)宮元町の真行寺に葬られ、その墓所が同寺の本堂の裏にあります。

墓碑には市造の戒名である「釋光因信士」と挽割屋の娘とおぼしき奥方(?)の戒名の 「釋妙珠信女」がならんで1つの石に刻まれています。その女性は市造が亡くなった2年後の明治43年に没しています。その隣にある墓誌には戒名の下の没年と俗名が刻まれていますが、俗名が渡辺市造ではなく渡辺七造となっています。

本人が川越で故意的にそのように名乗っていたためなのか、ただ単に石工が間違ったのか定かではありませんがいろいろと想像できて面白いです。

出身は武州多摩郡なので、近藤勇、土方歳三、沖田総司と同郷ということになります。
新撰組では平隊士で両長召抱人(局長近藤勇、副長土方歳三の召抱え人)ということですが、おそらく同郷の好でなんらかのつながりがあり入隊したのではないかと想像できますが、合わなかったのか半年で離隊しています。入隊した時16歳と若く、期間も短いので組の中での活動の内容はみえてきませんが、しんせんぐみに関わった人物が川越にいたというお話ですが・・・少し硬すぎたでしょうか?


歴史通S.U.
posted by 第一住宅 at 10:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする